アイデンティティの危機を乗り越えて
教員のライフヒストリーを研究した論文をいくつか読んだ。そこで気が付いたのは、教員が様々な時期に、様々なことが契機となって教員のアイデンティティの危機に陥っているということだ。アイデンティティの危機に陥ったとき、その教員がアイデンティティの再構築や確立ができた場合と、そうでない場合とでその後の教員のライフヒストリーは大きく異なっている。
教員がアイデンティティの危機に陥ったとき、ある教員は大学院でそれまでの自分を見つめ直すことで危機を出し、ある教員は授業研究などのサークルに参加したことで危機を脱し、ある教員はある先輩教員との出会いによって危機を脱している。危機を脱した契機になったものは人それぞれだ。フォーマルなものやインフォーマルなものまで様々だ。
しかし、そういう契機に恵まれないままアイデンティティの危機から脱することができなかった教員は、様々な問題を抱えたまま教職を続けていることが多い。指導力不足や問題があるとされる教員にそういう人がいる。
指導力不足や問題があるとされる教員の中にアイデンティティの危機に陥っている、または、危機から脱出できていないものが含まれている。そういう教員に対して現在の制度は妥当なものと言えるだろうか。様々な要因で危機に陥ったアイデンティティを再構築したり、確立することが現行制度で可能だろうか。
例えば、現在の指導力不足教員を認定する制度は、教員のライフヒストリーを丹念に調べるということはしない。現時点におけるその姿だけしか見ていない。それで十分だろうか。
何が要因なのかということをきちんと解明しなければ、対策はできないはず。しかし、何が要因であるかは関係なく、指導力不足や問題を抱えた教員を見つけ出し、型にはまった対策が行われている。
様々な要因が存在する問題には、多様な対策が必要なはず。対策の多様性を確保し、それぞれの教員が自分にあったものを選択できることが必要だ。フォーマルなものだけでなく、インフォーマルなものも必要だ。
教員評価が教員の資質向上を仮にも目的としているならば、絶えず教員に対する評価(Assessment)が行われ、その評価結果に基づいて様々な対策が講じられる必要がある。しかし、現行の教員評価制度はそのような制度ではない。ほとんどの教員評価制度がAssessmentではなく、Evaluationになっている。それは、教員の資質向上を目指したものではなく、教員の待遇に格差を付けることを目的としたものになっている。
危機に陥っている教員をそのままにしたり、排除するのではなく、戦略をたてて様々な対策を講じ、アイデンティティの危機を乗り越えられるようにすること。そのための教員評価制度を確立させること。それが今必要なのではないか。