思考力の捉え方

 二人の子どもにある質問をした。一人の子どもはその場で考え答えを出した。もう一人の子どもは図書館へ行き答えを出した。では、どちらが「思考力」のある(優れた)子どもだろうか。
 『教育と医学』 2005年2月号 佐伯胖「考えるとはどういうことか」のなかで佐伯氏は

 人は「アタマの中」で情報の「処理」を行うのではなく、外界の事物のアフォーダンス特性を知覚(ピックアップ)することで、知的行為を発現させるといういわば「外界依存」の知的行為もあるが、「アタマの中」での情報処理を最小限にして、大部分の情報処理を外界の事物の操作で「代行」させて解決してしまうという、やはり「知的な」行為というものがある。むしろ、日常生活の中では人々‐J・レイヴはそのような日常人のことをJPF(Just Plain Folks: JPF)と呼んだ‐がごく普通にやっていることの大半はそういうものなのである。
(中略)
 こういう「考えないでいいように(道具だてを)工夫する」という知恵は、むしろ、知的道具(そろばん、電卓、コンピュータなど)を活用するという、「外界と分かちもたれた」(distributedされた)知性として、最近注目されてきている。

というように述べている。
 例えば、暗算で答えを出すことと、筆算で答えを出すことのどちらが優れているかという問いは妥当だろうか。どちらも考えていることには変わりがない。今、子どもたちの思考力の低下が指摘されている。思考力の育成を「知的道具」特に電卓やコンピュータなどが阻んでいるといわれる。本当にそうだろうか。
 暗算で計算するということに「優れている」というような価値を与え、そのための方法として計算ドリルを推奨するということが、果たして子どもに「考えるということ」「思考力」の育成につながっているのだろうか。
 子どもたちの「知的行為」というものを非常に限られた中だけで捉え、閉じた世界だけで思考させているのではないか。道具を使ってはいけないというのは子どもの思考を制限しているだけではないのか。
 思考力のある一面だけを取り出し、価値を与え、他の面はそれより価値の劣るものとして捉えられている。それが、子どもの思考力を制限していることに気が付いていない。それは、学びの画一化、硬直化を招くことになる。画一化、硬直化した学びは、子どもたちに閉じた世界の中だけで学ばせることになる。学びが外に開かれないで、子どもたちが日常的に直面する問題に、閉じた世界で学んだ成果を生かすことを望むのは間違っている。