評価は人の成長を促すもの

教員評価/なあなあになっては困る

 この社説の

教師の新しい評価制度がまとまった。一言でいうと「一方向から双方向へ」という内容だ。教師の質を高めるためというが、本人への「評価の開示」が前提では厳格な評価を下せるものなのか。甘くならないか。

という部分。評価は厳格であるかどうかではなく、妥当であるかどうかが求められるのであって、この認識は間違っている。
 また、

学級をまとめられない。不登校やいじめに対処できない。学習指導に問題がある。自分を抑制できず、子どもに暴力をふるう−そんな教員が依然多い。

という点。「依然多い」とはどの程度のことを指しているのか。本当に「多い」といえるのか。
 さらに、

 第一は、評価内容を開示することで、「なあなあ主義」に陥り、評価が甘くならないよう指導と助言を徹底すべきだ。

 学校改革が思うように進まなかったのは、身内意識が強く、外部の批判に耳を傾けず、問題教師への対応が甘かったからではなかったか。同じ轍(てつ)を踏んではならない。

 新制度は「評価者が評価するのみの一方的な仕組み」を改め、評価に当たっては「被評価者の理解を得られるように努め、資質の向上を図る」というものだ。校長と教頭が評価、評価内容を開示することで双方向的な評価になると言う。

 趣旨は分かるが、うまくいくだろうか。評価は一方的だからこそ、ある真実を示すとも言えないだろうか。

という主張には全く同意できない。
 この社説を書いた方は評価というのをどのように考えているのだろうか。評価は、前のブログの時から主張しているように成長を促すために行うものだ。そのためには現状の把握とその後の対策が重要になる。評価結果の開示は現状の把握が妥当かどうかを見るためにも必要であり、他者評価の結果を本人が知ることで自分の状況を知ることにもなる。
 これまで書いてこなかったが、指導要録は必ずしも開示する必要はないと考えている。その理由は、指導要録に記された情報は教員の指導などに必要な情報であり、子どもに開示しても子どもの成長につながるというものではないからだ。
 だから、指導要録には子どもの状況について教員が引き継ぐ必要があると考えたことを記していけばいい。そういう情報は子どもに直接開示されるものではなく、教員がその情報を指導などに活かすことが重要だ。
 しかし、教員評価における開示はこの場合とは異なる。開示しなければ、評価者と被評価者の認識の違いなどが大きくなり、相互不信は増大されることになる。一方的な評価では教員の成長を促すことはできない。
 次の機会に取り上げたいと考えているのは、アメリカの教員評価の事例で、同僚同士で評価するというものだ。この取り組みについては最近読んだ、「教員人事評価と職能開発―日本と諸外国の研究」で知った。広く認知されていないので是非紹介したい。
 日本では未だに評価は一方的なもの。厳格なものがいい。何かを値踏みするもの。という認識がある。その認識は変えていく必要がある。