余計なことかもしれないが

現代的テーマ、意欲的に 日教組の教研集会で実践報告

 今回、この記事を取り上げたのは英語教育の是非について書くためではない。この記事で紹介されている授業実践について少しだけ書いておきたかったからだ。余計なことかもしれないが気になったので。

小学校英語「信長・秀吉どっちが偉い」

 伝えたい思いや内容を重視し、教科や総合的な学習の時間で調べたことを英語で表現する。そんな活動を報告するのは、富山県氷見市立海峰小学校の表克昌先生だ。

 (1)体験・調べ学習の時間(スマイルタイム)(2)毎朝10分、英語表現に親しむ時間(フレンドリータイム)(3)英語を使ったコミュニケーション活動の時間(キッズタイム)の三つを連動させる試みで、同校の先生たちが?年がかりで積み上げてきた。

 担任がほとんどの教科を教える小学校の特徴を生かした取り組みだ。

 例えば6年生は、社会科で日本の歴史を学んで一番偉いと思った人を各自で挙げた。織田信長豊臣秀吉足利義満紫式部伊能忠敬福沢諭吉など時代が近い人を組み合わせ、グループで人物を選択。2人のうちどちらが偉いかを、絵や劇も使って簡単な英語でディベートした。

 信長派の子どもたちが火縄銃のミニチュアを用意し、長篠の戦いで初めて鉄砲を使ったことを主張すると、秀吉派は農民出身で日本を統一したのはすごいと発表。

 聞き手の子どもの判定は互角で、外国語指導助手(ALT)が秀吉に軍配を上げ、勝敗が決まった。

 この実践の

例えば6年生は、社会科で日本の歴史を学んで一番偉いと思った人を各自で挙げた。織田信長豊臣秀吉足利義満紫式部伊能忠敬福沢諭吉など時代が近い人を組み合わせ、グループで人物を選択。2人のうちどちらが偉いかを、絵や劇も使って簡単な英語でディベートした。

という部分。この記事だけなので授業全体の詳細な部分は分からない。だから、ここで書くことは全くの誤解であるかもしれない。
 偉いのはどっちかという論題でディベートが行われたようだが、子どもたちはこれがどのような意味を持つのか理解できているのだろうか。子どもたちだけではなく、この授業を実践された方も理解できているだろうか。
 偉いのはどっちかという論題にした以上、子どもたちは「価値判断」を迫られることになる。しかし、この実践はその価値判断についてきちんと取り組めていないのではないか。
 例えば、取り上げた人物は権力を持っている側の人物だ。権力を持っている事が偉いという価値観とつながっている。など様々な批判が考えられる。なぜこのように批判が出てくるのか。それは「価値判断」が必要不可欠だからだ。しかし、この実践では「価値判断」をさせているにも関わらず、子どもたちはそういう意識も理解もしていないのではないか。
 「価値判断」を必要とする教材を選択したり、授業構成にした以上、価値判断についてきちんと取り組まなければ子どもたちは自分が価値判断するということについて学ぶことができない。
 このような実践は大変危険性のあるものだと言うことも出来る。子どもたちは自分たちが価値判断していることを意識していない。そして、授業ではある価値観が示され、それを子どもは無批判に受け入れてしまう。それは、授業者の価値観をそのまま肯定してしまうことになる。
 価値判断で重要なことは自分がなぜこのような価値観を選択し、その判断をしたのかということ。それを選択者がきちんと意識し、理解しているということだと考える。この実践ではその部分が欠落しているように思われる。
 総合的な学習の時間などの主題・教材選択や授業構成などを考える場合、「子供が興味を持ちやすい」というような観点だけで行い、それが「価値判断」を必要とするものであるかどうかというようなこと、「価値判断」をさせるべきかどうかということについて授業者は検討できていない。そういうものを見かける。
 教員は「価値判断」についてもう少し意識すべきだと思うし、子どもにもそれをきちんと意識させるべきだ。「価値判断」を何となく、曖昧にでしてはいけない。