教員評価と成果主義

 労働政策研究・研修機構「ビジネス・レーバー・トレンド」2005年3月号 特集:成果主義がもたらしたもの―「失われた10年」の賃金制度改革 八代充史・慶應義塾大学商学部教授 「『成果中心主義』に関する3つの誤解」のなかで八代氏は次のように指摘している。

 

まず第一に、「成果中心主義」は、個人の短期的成果を重視する。言うまでもなく、その理由は個人が過度に組織に寄生するのを食い止めることにある。しかし請負ならばいざ知らず、雇用労働の仕事はチームワークであり、組織メンバー間の相互依存が大きくなる程個人の貢献を測定するのは困難になる。ジェフェリー・フェファーが言う様に、個人の成果が全て客観的に測定できるのであれば、なぜそうした仕事を組織にしておく必要があるのだろう。
 また「成果中心主義」が念頭に置いているのは、「短期の成果」である。その結果、当然人は手っ取り早く成果の上がる仕事に飛びつき、じっくり腰を落ち着けて仕事をする者がいなくなってしまう。こうした風潮がもたらす最大の問題は、従業員がチームワークを学び、長期的に育成されていくという、これまでの日本企業の良さが失われてしまうことである。これは「人は育てるものではなく、育つものだ」とうぶいているだけで済む問題ではない。
 第二に「成果中心主義」では、「能力」と「成果」は全く別物と考えられている(もっと直截に言えば、「能力」は「年功」の温床と見なされる)。しかし「能力」が高い者は現在「成果」を上げていなくても将来「成果」を上げる可能性がある。従って企業が「成果」を高めるためには、まず「能力」開発によって従業員の能力を高めることが必要である。言わば能力開発は、「長期的」観点から成果を向上させることに他ならないのである。
 さらに第三点、「成果中心主義」は人件費削減の打ち出の小槌と思われている。しかし、そもそも成果主義の目的は、人件費を削減することではなく、従業員にインセンティブを与えることによってパイそのものを増大させることにあるのではないだろうかと。例えば、筆者がロンドンで垣間見たインベストメントバンクの人的資源管理は、究極の「成果中心主義」である。だが解雇と隣り合わせの明日をも知れぬ世界では、「一〇万ポンドのサラリーはお小遣い、ボーナスは、その一〇倍、二〇倍!」(元インベストメントバンクのマネジング・ディレクター)というべらぼうに高い報酬によってリスクとリターンが見事に釣り合っている。人件費削減のための「成果中心主義」は、こうしたインセンティブを与えられないばかりか、却って従業員のモラールを低下させるのではないか。

 教員の評価に成果主義を持ち込もうという動きが近年強まっている。しかし、八代氏が指摘した問題にほとんど目が向けられていない。
 教員の業務は個人プレーの部分が確かにある。しかし、教員のチームワークが全く必要ないというものでもない。総合的な学習や生活指導など教員のチームワークがうまくいかず苦労していることがある。そういうチームワークが必要な部分には八代氏が指摘しているように「組織メンバー間の相互依存が大きくなる程個人の貢献を測定するのは困難になる」。そこをどう評価するか議論が不足している。
 さらに、新しい評価制度を導入するには、教員の資質・能力を向上させるための制度の見直しも必要なはずだ。しかし、研修という名で偽装した懲罰的なものなど決して能力や資質の向上に結びつかないものがある。また、日常の業務に追われて能力を向上させるために使う時間と労力がほとんど無いという状況もある。「短期の成果」にこだわるためにじっくり腰を落ち着けて仕事をするとか、教員がチームワークを学び、長期的に育成されていくということが無くなってきている。
 八代氏は「「成果中心主義」は人件費削減の打ち出の小槌と思われている。」と指摘しているが、教員の評価に成果主義を導入しようという動機の大きな一つに人件費抑制というのがあるのは「財政制度等審議会」などの議論からも明らかだ。八代氏は「人件費削減のための「成果中心主義」は、こうしたインセンティブを与えられないばかりか、却って従業員のモラールを低下させるのではないか。」と指摘している。教員であってもそれは同じだ。
 以前、「教師にとって成果とは何か」というエントリーの中で

 

忘れてならないことは評価が難しいことを持ち出して、自分の成長を促すための評価までも拒否してはならないということだ。教師は評価を避けるのではなく、評価を受けながら成長することが必要だ。評価は常に成長のためにあり、排除のためにあるのではない。

と書いた。今は、適切な評価方法を探っていこうというのではなく、とにかく成果主義を導入すればいいという考えが強い。それは間違いだ。そのような動向は教員を堕落させ、教員という職業の魅力を失わせるだけだ。