これから

 t-hirosakaさんのエントリーを読みながら少しずつクールダウン。そして、採決されたからこれで終わりではなく、これからのことも大事だと改めて思う。
 以前書いたものを少し変えて転載。これが今の気持ちです。

 今「教育」に対して多くの人が不満や危機感を持っている。そいう不満や危機感は教育基本法の改正に対して賛成か反対かという立場を超えて共有されている。そういう不満や危機感を無くすために教育基本法を改正すべきという主張は、一定の説得力を持つ。それに対して、改正反対の立場から有効な主張はほとんど出てきていない。
 また、改正に賛成の側と反対の側との意見は大きく食い違っている。それは、現状をどのように捉えるかというところに違いがあるだけではなく、どちらも自分たちの主張を通すために、一方の主張を最初から排除してしまっているからだ。それは、小泉首相の論理と同じで、一方的に自分の主張だけを通して、議論を積み上げていくことをしない。
 教育基本法の改正に反対の立場で、一方通行の議論ではなく、議論を積み上げていく方向へとどうやって持っていくのか。そのための戦略を立てる必要がある。個人的には、教育基本法の問題を「法律の問題」としてきちんと議論をしていくこと。教育基本法改正に関連して出てくる「教育言説」をディコンストラクションすることが必要なのではないかと考えている。
 議論を積み上げないまま、教育基本法が数を頼りに改正されるのは一方的な「押しつけ」でしかない。そういう改正をさせないためにも何らかの戦略が必要だ。

与党のこじつけは批判しないのか

[「教育」衆院採決]「野党の反対理由はこじつけだ」

「やらせ質問」も「いじめ自殺」も、それを採決反対の理由に挙げるのは、こじつけが過ぎるのではないか。

 この社説では、野党、特に民主党を批判している。しかし、考えてみてほしい。与党が教育基本法改正の理由として挙げている教育の問題は、教育基本法を改正する理由になるものかどうかを。与党が理由として挙げている教育問題は、現行の教育基本法を変えなければ解決できないものではない。与党の論理はこじつけであり、論理の飛躍がある。読売新聞はそれをなぜ批判しないのか。
 また、

やらせ質問は議論の活性化が目的だったと政府は釈明するが、これはやはり行き過ぎがあったと言わざるを得ない。

とこの社説では述べているが、本当にやらせ質問の問題はその程度のことだろうか。やらせ質問という姑息な方法で世論を形成できると考えた政府の行為は、国民を愚弄する行為ではないか。それを行き過ぎだで済ませられるというのか。今後、こういうことが言論の自由を封殺するような法律の制定に使われたとしても読売新聞は「行き過ぎだ」で済ませるのか。

 衆院特別委の審議はすでに100時間を超える。それでも審議が不十分と思うなら、速やかに参院で審議のテーブルにつけばよい。

 読売新聞は、100時間を超える審議でいかなる問題点が明確にされたと考えているのか。教育基本法を改正する根拠が妥当であるかどうか明確になっただろうか。教育基本法改正によっていかなるメリットがあるのか。いかなるデメリットがあるのか明確になったのか。ぜひ、特集でも組んでその点を明らかにしてもらいたい。
 読売新聞に限らず、民主党の国会戦略を批判することで、教育基本法の問題を民主党の姿勢の問題に転嫁しようとしている。民主党は、教育基本法改正では軌を一にしながら、選挙の勝利目的のために教育問題を利用してきた。それは批判されるべきだ。しかし、だからといって教育基本法改正案がきちんと議論されることもなく採決されたことを正当化することはできない。
 読売新聞のこの社説はまさに「牽強付会」の説というべきものだ。

BSディベート「どうすれば 教師の質を高められるか」

http://www.nhk.or.jp/bsdebate/index.html

 11月26日(日)放送のBSディベートの出演者が決まったようだ。戸田忠雄氏、安念潤司氏、佐藤 学氏、藤田英典氏の4人が討論を行う。
 ホームページで各氏の主張が読めるのだけど、そのなかで戸田氏と安念氏の主張で気になった部分があったので引用しておきたい。
 以下、戸田氏の主張からの引用。

 セクハラと同じように考えれば、いじめをなくすことは難しくない。
 加害者にはセクハラの意識がなく、悪気ではなく仲間内の親愛の情の証として性的な揶揄や冗談を言う。しかし、被害者にとっては耐え難い。
 「セクハラはやめましょう」というキャンペーンや精神論では解決しなかったが、違法行為として立法化されたらおさまった。

 ムラ社会の特徴は、ムラ長に異議をとなえないこと
 (和をもって尊しとなすべし!・・癒着馴れ合い体質と甘えの構造)、内部の恥を外部にさらさないこと(犯罪通報は密告『チクリ』・・閉鎖的な体質)、法体系と矛盾する内部規範があること(校則)などである。
 学校ムラでは先生は絶対であるべきで、子どもや親も無条件で尊敬し服従しないと教育はできない
(入学のとき保護者に「先生の悪口は言わないでください」という校長がいる!)。
 先生は子どもたちを善導するためには体罰も辞さない覚悟が必要であるし、そういう「厳しい先生」がよい教師である。
 こうした教師の論理が、学校ムラの「常識」となっている。だから完全な違法行為である体罰も、いじめと同じくなくならない。

 戸田氏は、「セクハラは違法行為として立法化されたらおさまった。」と言いながら、「完全な違法行為である体罰も、いじめと同じくなくならない。」と主張する。これは、セクハラが収まったなどという事実誤認も甚だしい主張であるだけでなく、両方の主張は矛盾している。だから、戸田氏の主張するようなことでいじめなどの問題が無くなるとは思えない。

 以下は、安念氏の主張より引用。

 低品質のサービスを一律平等にユーザーに押し売りする――こうした毛沢東主義が、日本の学校教育全体を染め抜いている。
 しかし、ほとんどの商品・サービスと同じく、教育サービスも競争によってしかその品質を向上させることはできない。
 それが、一世紀にわたる共産主義の悲惨な実験が人類に与えた教訓であった。ひょっとすると、教師の質の絶対値は、一世代前よりも向上しているのかもしれないが、市場で供給される財の質は、この間劇的に向上したために、教師の質の低下が指摘されるのである。

 公教育システムは、競争がなかったために、ダメ企業に典型的な症状を呈している。
 まず、教育サービスという「単品」しか供給していないのに、文科省、県教委、市町村教委という何段階もの膨大な管理部門が現場の邪魔をしている。
 しかも、これら管理部門は、いじめ問題によく表れているように、現場に介入はするが責任は取らない。
 旧日本軍では、「現場には責任だけあって権限なし」といわれたそうだが、負ける組織には負けるだけの理由があるのである。

 安念氏の主張は、単なる妄想でしかなく、こういう主張に反論する気がしない。安念氏には、大学ではなく小・中・高のいずれかに数ヶ月教員としてお入りになって、主張される教育をぜひ展開していただきたい。その上でもう一度同じことを主張されるならこの主張に私は賛同します。

追記
 番組を見ながら少し感想を。こういう討論は、テレビよりも冷静に主張ができる論文などの形でやる方がいいなと改めて思う。