評価の妥当性の問題と「ゆとり教育」という亡霊とそれに踊らされる面々

【公教育を問う】第2部(1)「ゆとり」の先に 自信も失った若者たち

【公教育を問う】第2部(1)「ゆとり」の先に 自信も失った若者たち

ゆとり教育」の先に…自信も失った若者たち

 彼らは何をしにいったのだろう。この記事を読んで最初にそう思った。彼らを被害者と呼ぶならば,その理由は次のような点にある。一度として妥当な評価の枠組み・評価の方法で彼らの学力が評価されていないこと。それにも関わらず,彼ら自身もその周辺も,世間も彼らの学力低下を憂い,彼らの自信を喪失させているという点だ。
 OECDPISAやDESECO,TIMSSなどの一番の目的は何か。それは,要請に応えるために妥当な評価の枠組みと方法とを研究・開発し,それを提供すること。そして,それは継続的に評価と見直しが行われ,妥当性の追求が行われている。
 けれども,国内に目を向ければ,要請があるにも関わらず,妥当な評価の枠組みも・方法も研究・開発されていない。評価として妥当かどうかに関係なく「テスト」が行われ,テストの点数やランキングの上下を問題とし,学力が低下した,そうじゃないと言っている。さらには,個別のテストには共通した部分と違う部分があって簡単に比較できないし,同列にして議論はできないのに学力の低下などが議論されている。
 この記事にあるような的外れな子どもたちによる責任追及は,評価の枠組みや方法の妥当性を問うこともなく,点数の上下やランキングの上下だけで子どもたちの学力を議論する世間の姿勢をよく反映している。
 いわゆる「ゆとり教育」というものが,彼らの自信までも喪失させたというのは間違いで,彼らをきちんと評価することもしないでレッテル貼りだけをしてきたことこそその責任を問われるべき。
 そして,もう一つ。学習指導要領という枠がいかに広くても,狭くてもそれは学ぶことのごく一部でしかない。それを承知しながら,子どもにその枠組みの中だけで学ぶことを強調し,その枠組みが狭いからお前たちはものを知らないんだとか,学力が低下したんだなどという。
 子どもが学ぼうとするなら学習指導要領の枠組みをいつでも超えられる。枠組みの内と外をいくらでも行き来できる。そういうことを子どもにまず教えればいいし,そういう社会を作ればいい。
 繰り返して言うなら,今回取り上げた記事に出てくる子どもたちは,評価の妥当性を問わない,「ゆとり教育」という亡霊に取り憑かれ,それに踊らされる大人たちの姿の反映であり,その被害者でもある。
 いつまでこうしたことに子どもを付き合わせるのか。大人たちは子どもに対して,そうしたことに付き合わせている責任をきちんと負おうとしているのか。