親心と公共圏としての学校

全国初の「イチャモン保護者」対応チーム、来月初旬に発足

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田原宏人「子育ての自由の平等と福利追求の自由の平等」のなかで田原氏は,

 教育問題は,(少なくとも子をもつ親にとっては)まずもって我が子の教育問題である。このことは断定することができるほど自明ではないかもしれないが,そのように表象される傾向にあるというのはかなりの程度事実であろう。

と指摘している。
 学校や教師に要求をしてくる親は「我が子の教育問題」として要求をしてくる。そして,学校はそういった要求から逃れることはできない。
 学校は「親心」と表現されるような私的な欲求が交差し,時にはそれらが対立するような場所だ。だとしたら,学校はその私的欲求を議論などを通して調整しなければ成り立たない。
 しかし,「かくあるべし」といった規範を上から被せることで親や子どもの私的欲求は自動的に調整され,行き過ぎた欲求は押さえ込むことができると考えられている。だから,保護者の過剰な要求に対して,それを調整するのではなく,まずは突っぱねよ,そしてそういった親には規範を教え込めとなる。
 以前,「当事者」として教育に関わるということについて書いたことがある。親は「我が子の教育問題」に当事者として様々な要求を出す。そして,「当事者」は互いの私的欲求を調整するという役割も同時に担うことになる。
 学校は親や子ども,教師も含めた当事者が互いに要求を出し,互いの要求を様々な方法で調整する。調整が行われることで公共圏としての学校が成立する。学校には私的な欲求を超えた「規範」が存在し,それによって学校が公共圏として成立しているのではない。
 私的欲求を押さえ込むことで学校を安定化させようとするなら,間違いだ。それで問題が解決することはない。欲求を無理に押さえ込めば,見えないところでくすぶっているだけで,何らかのきっかけで一気に噴出することになりかねない。
 まずは突っぱねよ,そしてそういった親には規範を教え込めと言うだけではこの問題は解決しない。