それは自明ではない

 教育に関する話題では、自明でないものが自明であるかのように語られることが多い。「皆さんもご存じの通り」とか「皆さんもお感じのように」というようなことを言ってから話し始める。それは、単に自分は知っていること、自分は感じていることをそう言うことで、聞いている人に同意を強いているだけ。
 マスコミも同じことをやっている。教育に関する記事では、よく、きちんと調べたことでもないのに、自明ではないことを自明なこととして扱っている。そういう報道が繰り返されることで、さらに自明でないことが自明であるという錯覚を引き起こさせ、信じ込ませてしまう。
 おそらく、今、子どもたちの学力は低下していないと言ったら、何を言っているの?と言われるだろう。学力低下が問題だから対策を講じているじゃないかと。でも、よく考えてほしい。その学力って一体何か。また、低下というのは一体いつと比較し、どの程度の低下なのか。学力も低下も曖昧なもので、どういう意味で使うかは人によって変わる。だから自明なことじゃない。だけど、学力は低下しているという前提で物事は進んでいる。少年の犯罪などでも同じ。
 多くの人が同じようなことをこれまでに書いておられるので、これ以上書くと何かの受け売りになりそうだ。だから、これぐらいにして、最後に、教育の問題では、少しでも問題があるとそれを大きな問題だと捉えられてしまう。その一方で大きな問題が些細な問題として捉えられることがある。そして、それは個人の感覚といったところに拠っている場合が多い。だから、教育問題では、自明だと言われているようなことが自明ではないことがよくある。それと、教育的という言葉にもご用心を。