塾要らずの公教育は本当に素晴らしいのか

塾要らずの公教育実現 谷垣氏、政権構想を具体化

子どもが塾に通わなくても済むよう公教育の質を充実させる

 谷垣氏に限らず、よくこういうことが言われる。果たして、塾に通わなくて済む公教育は本当に素晴らしいものなのだろうか。塾に通える子と通えない子との間で格差が生じていると言われている。その格差を解消するためには公教育の質の向上が必要だと言われる。しかし、それはおかしい。
 まず、塾と学校は全く同じ役割を担っているものではない。塾に通う目的は人それぞれだが、大まかに言って二つある。一つ目は受験の準備をすること。二つ目は学校の授業だけでは理解が十分ではないので、そこを補うこと。そういうものは、公教育の質が高ければ必要がないのか。それは違う。受験の準備にしても、理解できないところを補うにしても、「公立の学校とは異なる」からできることだ。公教育には様々な制約がある。そういう制約は塾にはない。その点だけでも両者の違いは大きい。だから、公立の学校と塾は競合するものではない。
 現在、塾や私立の学校が親や子どもたちの支持を受けているのは、公教育が掲げたものとは異なるものを掲げたからだ。学力低下ということが言われ始め、公教育の掲げたものに対して批判が集まると、すぐに塾や私立の学校はそれとは異なるものを掲げ、支持を集めた。そして、PISAの掲げた学力観に支持が集まるとその学力観を掲げた。それは、公教育とは異なり、小回りの効く規模だったからだ。それは当然の話であり、公教育の質が向上してもそういうことは無くならない。
 塾と公教育の役割は異なるはずだ。しかし、両者を同一視してどっちが上か下かなどということが言われる。そういう議論は公教育の役割を小さなところだけで考えているからだ。公教育はそういう小さな範囲で捉えられるものではない。
 「塾に通わなくても済む公教育」と言ったとき、「それは民業圧迫だ。」というような批判はほとんど起きない。なぜだろうか。塾が果たしている役割を公教育が担うことになれば、それは、民間でできることを公が奪うことであり、小回りが効いて、消費者のニーズに応じて様々なサービスが提供できていたものを、規模が大きく、小回りの効かない、規制の多い公教育では同じサービスが提供できるはずがない。それでも良いということだろうか。
 その公教育を役割ごとに細分化して、小回りの効くものにすべきという意見もある。そうならば、公教育の現在の運営の仕方や形態を残す必要はなく、教育に関わる様々な規制は撤廃し、民間で運営し、公的なものは必要最低限であればいいということになる。そうなれば、教育は単に私的財として存在するだけであり、格差などは問題ではなくなる。
 公教育の質の向上は常に求められる。しかし、それは公教育の担う役割を際限なく拡大することではないし、細分化してしまうことでもない。全て民か、全て公かというものでもない。「子どもが塾に通わなくても済むよう公教育の質を充実させる」というのは、間違っている。