やり方を少し変えるだけでも可能ではないか?

中教審、「ゆとり」見直しの報告・国語と理数充実求める

 国語や理数系教科の授業時間増を打ち出したようだ。しかし、授業時間増で本当に課題が解決できるかと言えばそうではない。
 例えば、台湾のカリキュラムでは、教科のカリキュラムと同時に「重大議題」として「情報教育」「環境教育」「ジェンダー教育」「人権教育」「生涯教育」「家政教育」というものを定めている。これらは、すべての教科を通して育成するものと位置づけられており、各教科のカリキュラムのなかに様々な形で採り入れられている。
 これから国語力を重視すると中教審などは打ち出しているが、それを「国語」という教科のなかだけに押し込めてしまっている。あらゆる教科を通して学ぶという発想が希薄だ。総合的な学習はその発想を打ち破るものであったのに、結局はその発想を打ち破ることができていない。それは、OECDPISA調査で用いられた「読解リテラシー」という概念をきちんと理解せずに読解力の育成は国語科だと位置づけ、読解力を極めて狭い概念にしてしまっているのと同じだ。
 OECDが打ち出した「リテラシー」の概念は、報告書などにはっきり書かれているように教科横断的なものだ。知の総合化というものだ。しかし、日本の教育には未だに教科横断的なものという概念が定着していない。数を扱うといえば数学、科学といえば理科系教科などと教科という狭い範囲に押し込めてしまう。
 国語力育成をすべての教科で育成するということで位置づければ国語力育成に使用する時間数は相当な量になる。そういう時間の使い方をせずに、国語という教科の授業時間数を増やせばいいという発想は短絡的だ。
 例えばグラフの読解ということを学ばせようとするとき、算数と社会、理科などをつなげて授業を組み立てることができるはずだ。しかし、そうやって組み立てている授業をこれまでほとんど見聞きしたことがない。多くが、各教科の教科書の単元の配置通りになっていて、関連するものを集中して学ぶというようにはなっていない。
 教科でも総合的なことはやっている。だから総合的な学習は必要ない。というような意見があるが、教科のなかでやっている総合は教科の枠組みを超え切れていない。他教科との相互の学びにはなっていないのが現状ではないか。
 今必要なことは、カリキュラムを全体的に見直すことだ。一番問題なのは授業時数減ではなく、カリキュラム全体の関連性が希薄になっていることだ。国語力の育成を国語という教科だけに押し込めている現状ではその問題は一向に解決できない。