世界の流れはこれとは違うのではないか

新時代のリーダーを育成するため、経済界が創る中高一貫校の設計図

 この論文の

 

「新しい学校を作ろう」という発想がなぜ経済界から出てきたのか、との質問にはいつも次のように答えている。
 第一に、独創性に秀でた若いリーダーたちが多数必要であると痛感していること。冷戦終結がもたらした市場拡大が結果として世界的規模の競争を激化させ、低賃金の脅威のなかで競争力を長く維持する必要があることが背景にある。第二に、日本の戦後教育は、経済成長を支えるのに大きな役割を果たしたものの、公平を重視するあまり、この種のリーダー育成という点が重要視されなかったということ。第三に、世界の先進国の教育制度を眺めていると、どの国も例外なくリーダーになり得る素質を持った若人を積極的に発掘し、押し上げるメカニズムが古くから社会にビルトインされている、という事実である。

部分には少し異論がある。
 以前、「エリートの育成と教育達成について」というエントリーでアンディ・グリーンの次のような指摘を引用した。

 

イングランド(とウェールズ)およびアメリカは、すべての生徒に対して高い期待を制度化することに、相対的にみて成功していない。両国ともエリートを国際的水準まで教育することには成功しているが、エリートの高い野心を、大多数の大衆に一般化することには失敗している。

高い教育達成を示している国々が、低い達成を示している国々に比べて、義務教育学校システムに有している本質的な違いは、前者が、文化と一定の制度的メカニズムとによって多くの子どもたちに高い目標と達成を奨励しているのに対し、後者は、高い能力を持ったり高い階層の出身だったりするエリートに関してだけ成功しているという点である。

 アメリカのブッシュ政権は、「落ちこぼれをつくらないための初等中等教育法」で、決して成功しているとは言えないが学力の全体的な底上げを目指している。特にマイノリティや貧困層の子どもたちの学力の底上げを目指している。
 アンディ・グリーンが「すべての生徒に対して高い期待を制度化することに、相対的にみて成功していない。両国ともエリートを国際的水準まで教育することには成功しているが、エリートの高い野心を、大多数の大衆に一般化することには失敗している。」と指摘したアメリカがなぜこのような政策をとっているのかをもう少し考えなければならない。
 知識社会では少数のエリートやリーダーが多数の人々を牽引していくという構造では対処できない。これまでエリート教育に成功してきたとみられる国々ではそれが課題となっている。しかし、日本ではそれと逆のことが起こっている。他国が日本の教育に学びそれ日かずこうとしているのに対して日本ではその日本的な教育を否定する意見が多い。
 アメリカなどの教育政策と逆行することがすべて悪いのではないが、日本の社会や教育に対する現状認識が果たして妥当かどうか、今すすめている教育政策が妥当かどうかもう少し議論していくべきだ。