学ぶことと開くこと,閉じた中にいることを前提としない議論を

親の意識が変化? 中3は「28人に1人」が不登校

 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070813/1187011418http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070701/1183261276で書いたことをもう一度繰り返すけれど,学校に行くこと=学ぶ=社会性を身につけるというような図式から一度抜け出すべきだと思う。不登校の子どもにとって学校は閉じていたとしても,教育や社会が閉じていなければいい。そういうものを作っていけばいい。
 「学校のない時代」には「学び」も「社会性」も無かったのか。そのことを一度考えてみたらどうだろうか。いわゆる「脱学校論」といわれる主張の数々は,学校に行くこと=学ぶ=社会性を身につけるというような図式が疑うことなく前提としているものへの懐疑が背景にあるのだろうと思う。疑うことなく前提とされているもの。それがこの国で特に最近の教育に関する議論には溢れている。おかしなほどに,きちんと定義されもせず,疑われもせず,それが前提とされている。不登校の子どもを学校に必死につなぎ止めようとしている。そこにも,数々の疑われることのない「前提」が存在している。
 ここで言いたいことは,学校悪玉論や廃止論ではない。学校に行くことという選択肢がなぜこれほど重視され,それ以外の選択肢がこれほど軽視されるのか。それはおかしいだろうと思う。それだけではない。学校に行くという選択肢がこれほど重視されながら,学校における学びに関する議論が中心になぜこないのだろうか。学校に通わなければ身につけられないものがある。それは確かにそうだ。けれども,それは何か。学校に通うことを主張する前に,そこをもっと考え,議論すべき。