ゆとり教育からの脱却とゆとり教育は失敗だったという言葉で目隠しされる前に

<学習指導要領>「知識軽視」「ゆとり教育」の旧要領は誤り 現在は70点 梶田中教審副会長が講演

 まず,この記事を読んでも今回の学習指導要領の改訂が「ゆとり教育からの脱却」だと考えますか?http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080428/1209350455で書いたことをもう一度繰り返せば,「ゆとり教育からの脱却」という言葉は,見切り発車しかしない,慎重さや丁寧な議論,丁寧な検証を欠いたまま進められる教育改革の問題を改善してこそ使われるべきもの。梶田氏は中教審の中心メンバーであり,影響力もある人。そういう人がこうしたことを平気で言うのは間違っている。
 ゆとり教育は間違いであった。ということにその被害者である子どもは云々ということがよく言われ,特定の官僚を名指ししたり,組合を持ち出して批判される。確かに彼らは被害を与えた。彼らは今でも問題の解決に本気で取り組んでいない。けれど,ここで言いたいのはそういうことではない。
 教育は常にどこかで子どもを被害者にする。今回の学習指導要領の改訂でも子どもは被害者になっている。ゆとり教育だけが被害者を作り出したのではない。いつでも子どもが被害者になるなら,求められることは慎重さや丁寧さを最優先すること。そうしたことが最優先されない,されなかった日本の教育は,「ゆとり教育からの脱却」や「ゆとり教育は失敗だった」というような言葉に踊らされ続けている。それこそ,子どもにとって不幸なこと。
 授業時数がいくら増えても,教える内容がいくら増えても,教師の質が向上しても,風見鶏でフラフラしている。どこに問題があるのか,どうしたらその問題が解決できるのか,そういうことを時間も労力もかけて検討することもない。そういう状況を変えないなら何も変わらない。表面的な変化は起きても中身は変わらない。ゆとり教育だろうがゆとり教育からの脱却だろうが,問題は同じ。
 ゆとり教育からの脱却とゆとり教育は失敗だったという言葉で目隠しされる前に想像してみませんか。教育改革をめぐってどういうことが言われているか,行われているか。今と同じように,ゆとり教育の時代と同じことが繰り返されているでしょう。慎重さや丁寧な議論,丁寧な検証を欠いた教育改革が。