私教育を前提としない議論は成り立つのか

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 Yahoo!のこの記事に寄せられているコメントを読んでいると,先日も書いたように「私教育」を前提としないで批判したり議論しようとしているように思う。そうした批判や議論は成立するのだろうか。
 また,この問題の背景に宗教などがあるとしても,この問題を宗教の問題や保護者の身勝手といった議論で済まそうとするのはおかしいだろうと思う。
 「公教育」の追求する「公益」がある。けれども,そこには同時に「私益」の追求もある。その両者が,現行では混同されていたり,一方だけが追求されていたりする。
 公益と私益の追求によって葛藤や軋轢が生じることがある。だからこそ両者の折り合いを付けていく必要がある。そのためには,「私教育」と「公教育」の両者の存在を前提としなければいけない。
 例えば,和田中の「夜スペ」や「学校選択制」は公益の追求なのか私益の追求なのか。そうしたことが議論されずに,「学力向上」や「権利の拡大」といった言葉によってそれが行われたり,導入されていたりする。
 日本の「学校」は「公教育」を担う。(誤解があるといけないので書いておくとここでいう「学校」は公立私立の区別はない。両方とも公教育を担う存在だからだ。)その「学校」では「公益」が追求される。だから税金が投入される。では,その学校で「私益」の追求はどこまで認められるのか。そうした議論はこれまではあまり行われてこなかった。また,私益の追求は言葉を駆使してその言葉を隠れ蓑にして行われてきたりした。そして,葛藤や軋轢が生じたとき,一方的な批判が行われたり,多大なリスクを負ってそこから外れなければならなかったりしてきた。
 教育における公益と私益の折り合いを付けるには,「私教育」の問題から目を反らすことができない。
 「公教育」から外れることは「教育」から外れることと同義ではない。以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070813/1187011418などで書いたように学校が閉じたとしても教育を閉ざすべきではない。例えば,ホームスクールを欧米のように認めたとして,そこでは社会性も学力も身につけられないというのはおかしい。アメリカではホームスクールの子どもの学力は高いという調査結果もあるし,ホームスクールの子どもが様々な社会的な活動に積極的に関わっているという調査もある。学校に行かないことを社会から遮断された状態にあるという前提だけで考えれば,それは理解されないだろうと思う。
 私教育を前提とする議論が行われるならば,学校に通えない子どもやホームスクールの子どもも教育を受けられる制度の創設や整備が求められることになる。チャータースクールや学校選択制の議論もそうした中で出てくるだろう。
 今のように「私教育」を前提としないまま議論をしても,ここで取り上げた記事にあるような問題は解決しないだろうと思う。この機会に「私教育」や「公教育」ということを考えてみたらどうだろうか。