南原繁の言葉

 『南原繁著作集』第8巻に収録されている「日本における教育改革」の中で南原氏は次のように述べている。

 ここにおいて、一つの問題は、わが新憲法はいまではあまねく人の知るごとく、主として司令部の原案に基づいて制定されたと同様に、わが国の教育基本法をはじめ、六三三四制の新しい教育体系も、司令部の指令、特にアメリカの強要によって、つくられたものであるという臆説が、国民の間に流布されていることである。さらに、それが、一部の人々の間には、日本が独立した今日、われわれの手によって自主的に再改革をなすべきであるという意見となって現われている。しかし、もしその根拠が、かような臆説に基づくとするならば、それは著しく真実を誤ったか、あるいは強いて偽った論議といわなければならない。

 このような、教育基本法制定はアメリカから押しつけられたものではないという主張は南原氏に限ったものではなく、教育刷新委員会に関わった委員の多くが同じ主張をしている。南原氏はこの論文の最後で次のように述べている。

 近年、わが国の政治は不幸にして、一旦定めた民族の新しい進路から、いつの間にか離れて、反対の方向に動きつつある。その間、教育の分野においても、戦後に性格転換をとげた筈の文部省が、ふたたび往年の権威を取り戻そうとする傾向はないか。新しく設けられた地方教育委員会すら、これと結びついて、文部省の連絡機関となる惧れはないか。戦後、教育者の団体行動のうち、自律反省を要するものがあったにしても、それを理由に昨年制定された教育二法の施行の結果、全国多数のまじめな教師の間に、自由や平和がおのずから禁句(タブー)となりつつある事実は、何を語るか。いま世間では、新大学制度の問題にとかくの論議が集中されている間に、もっとも基礎的な国民教育において、制度はそのままでも、見えない変化が静かに進行しつつあるごとくである。
 このような状況のもとで、その意識していると否とを問わず、ふたたび「国家道徳」や「愛国精神」を強調することが、いかなる意味と役割をもつものであるかは、およそ明らかであろう。わが民族の失われた独立は、ふたたび「天皇中心」主義をおし立てて、旧い国民道徳に立ちかえることにあるのではない。民族独立の真の道は、人間天皇をはじめとし、国民のひとりびとりが人間の尊厳の自覚による人間性の回復と、かような人間がおのおのの仕事を通して共同の事業に参加し、悦びをもってそのために身をささげ得るような平和的文化共同体の建設のほかにはない。それは日本再建の唯一の道であるとともに、時代の危機に直面して、いま世界が要求している人類共同の課題でもあるのである。かような国民の新しい理想と使命に対する自覚に基づいてこそ、真の愛国心は喚起されるであろう。そして、かかる国民の自覚と愛国心を喚び起すものは、教育の力を措いて、ほかにはない。
 この意味において、新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。ことに教育者は、われわれの教育理想や主張について、もっと信頼と自信をもっていい。そして、それを守るためにこそ、我々の団結があるのではなかったか。ことはひとり教育者のみの問題ではない。学徒、父兄、ひろく国民大衆をふくめて、民族の興亡にかかわると同時に、世界人類の現下の運命につながる問題である。

 南原氏の「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。」という言葉は、多くの人に知ってもらいたい。